記事2026 年 5 月 12 日by とし
給与は削られても、BS は積み上がる
金融機関の企画部門・システム部門で 25 年。年収はそれなりに来ているのに、生活が楽になっている感覚がほとんどありません。むしろ毎月のキャッシュフローは年々カツカツになっている。 ある時期から、自分には実は 二つの BS(バランスシート) があるという見方をするようになって、ようやく自分の手応えが腑に落ちた気がしています。
サラリーマン大家には、BS が二つある
普通、自分の家計を考えるときは BS は一枚です。BS(バランスシート)は、持っているもの(資産)と借りているもの(負債)を並べた一覧表のこと。預金がいくら、保険にいくら積んで、住宅ローン残債がいくら、退職金見込みがいくら ── そういう家計の BS。
ところがレバレッジを効かせて投資用不動産を持っていると、もう一枚別の BS が立ち上がります。物件の事業 BS。家賃で回り、ローンで支えられ、物件評価が左側に乗っているシート。
この二つは、同じ自分の名前が書いてあるのに、性格がまったく違います。
家計
個人保険
年金
実質は目減り
物件
事業インフレで希釈
月次キャッシュフローが、じわじわ細っていく
「給与は上がっているのに、生活が楽にならない」── この感覚の正体は、家計の月次キャッシュフロー(給与で入って、生活費・税金・社会保険料で出ていく流れ)が、少しずつ細り続けているからだと思っています。
収入: 給与(名目でほぼ固定、年率 1-2% 程度の昇給)
支出: 食費・光熱費・教育費・住居費(物価とともにじわじわ上昇)
→ 差し引き(=月次キャッシュフロー)が、毎月少しずつ細る
過去 30 年の日本の実質賃金は、ほぼ横ばいか下落です。33 年ぶりの賃上げ春闘 5% 超えと報道された 2025 年でさえ、実質賃金は 4 年連続マイナスでした。給与の名目額がいくら上がっても、生活費の上昇に追いついていない。
しかもこれは、大きくドンとくるのではなく、月数千円から数万円のレンジで、毎月じわじわと細っていきます。真綿で首を絞められるように ── そういう速度で来るので、本人もどこから不安が来ているのか、なかなか言語化しづらい。けれど確実に、将来への漠然とした不安は煽られていきます。
これが、サラリーマンの「毎月キツい」の正体だと、私は思っています。
金融資産も、ストックの側で実質目減りする
細るキャッシュフローは、ストックの側にも持ち越されます。預金は貯まりにくくなり、保険・年金は名目額のまま動かないけれど物価で実質目減りする。住宅ローンの繰上返済ペースも落ちる。
特に金融資産(預金・保険・年金)は、名目で見れば「いくら積んだ」がはっきりするけれど、実質購買力で見ると毎年静かに目減りしていきます。終身保険 1,000 万円は、年率 3% のインフレが 20 年続けば、当時の物価感覚では 550 万円相当の価値しかなくなる。「終身」は名目の終身であって、実質の終身ではありません。
つまり個人側は、フロー(月次キャッシュフロー)もストック(金融資産)も、どちらも実質的に貧しくなる側に立たされている。これが過去 30 年のサラリーマンの構造で、私自身もこの世代に属しています。
物件 BS は、純資産が静かに積み上がる側
資産: 物件(立地次第で、長期では物価追随)
負債: ローン残債(名目固定、元金償還 + インフレで実質減)
純資産 = 資産 - 負債(時間とともに静かに増える)
この BS の特徴は、名目固定の借入と、物価追随の資産が、対になって乗っている ことです。物価が上がる分だけ、資産側は名目で膨らみ、負債側は元金償還とインフレ希釈の両方で減っていく。月次のキャッシュフロー(家賃 - 返済)はほぼトントンで、月の手触りには乗らない。動いているのは BS の側、純資産の伸び です。
数字を当てると、こうなります(物件価格 3,000 万円、フルローン、固定金利 1.5%、35 年、インフレ年率 3% を仮定)。
今の物件 BS
購入時10 年後の物件 BS
年率 3% インフレ仮定注:この試算は、インフレ年率 3% が 10 年続き、物件価格が物価並みに切り上がる、という前提に乗っています。インフレが進まなければ純資産はほぼゼロのまま、価格が下落すればマイナスに振れます。また、購入時の諸費用(物件価格の 7〜8% 程度)と、売却時に乗ってくる譲渡所得課税(長期で 20.315%)は、上の図には含めていません。読み手の方が自分の物件で考えるときは、ここを差し引いた上で見てください。
別の記事(借金がインフレで実質目減りする、というからくり)で書いた「4 年で 200 万円の元金償還に対して、インフレが 255 万円分の借金を軽くした」というからくりも、この純資産の伸びの一部です。元金償還がコツコツと、インフレ希釈が静かに、両方が同時に効いていく。
もっとも、変動金利だとインフレに伴って金利が上がり、月次の返済額も増えます。それでも、資産の名目上昇が金利上昇を上回るペースであれば、純資産は積み上がり続けます。逆に資産の上昇が金利上昇に届かないと、ここの構造は逆回転に転じる。ここは前提条件として正直に置いておきます。
つまり物件 BS の中では、物価が上がる局面では、純資産が時間とともに実質で増える側 に立てる可能性があります。借入の固定名目という性質が、希釈する通貨と引き換えに効いてくる ── ただし前提条件が崩れれば逆に振れる、という両刃の構造でもあります。
時間の進み方が、真逆になっている
ここが、月次のフローと年単位で動くストックを分けて見るときに、一番大事なところだと思っています。月次キャッシュフローと 物件 BS では、時間の進み方が真逆になっています。
月次キャッシュフローの進み方:毎月リセットされて、累積感がない
給与は毎月振り込まれて、生活費で出ていく。月次の収支が毎月リセットされる。「今月キツい」「先月より厳しい」という肌感覚は、ここから来ています。日々の手触りそのもの。
物件 BS の進み方:見えないところで静かに累積する
家賃が入ってきて、ローンが引き落とされる。一見、家計の月次キャッシュフローと同じように毎月リセットされているように見えます。けれど 物件 BS には、月次のリセットでは見えない静かな累積がある。
- 元金償還が毎月コツコツ進む(月数千円〜数万円分、20 年で数百万円〜千万円規模)
- インフレで借入の実質額が静かに希釈されていく
- 物件価格が長期で物価並みに切り上がる(売らない限り名目では出てこない)
つまり 物件 BS は 見えないところで毎月積み上がっている。月の銀行口座を眺めるだけでは、何も起きていないように見えます。
多くの人は「月次キャッシュフロー」しか見えていない
人間の脳は、見えるものに引っ張られるようにできています。
- 給与振込・引き落としは「全部見える」 → 強く意識される
- ローン残債の通知に書かれている名目額は「変わらない」 → 何も起きていないように見える
- 物件価格の上昇は「売らないと数字にならない」 → 含み益は感情に乗らない
結果として、毎月キャッシュフローがカツカツでも、その横で 物件 BS が静かに積み上がっている、という非対称が、肌感覚としては感じ取れない。「不動産投資なんて月数千円しか手取りないのに、何が嬉しいの?」という感覚はここから来ます。
私自身、3 軒すべてフルローンで持っています。家賃の改定は契約に組み込んでいるわけではなく、4 年に一度くらいのペースで賃借人と値上げ交渉をして、双方合意の上で動かしてきています。それでも物価上昇のスピードには追いつかず、固定資産税まで入れて勘定すると、月次のキャッシュフローはマイナス傾向に進んでいます。月次キャッシュフローの感覚で見ると「割に合わない」。けれど 物件 BS の純資産を年単位で計上すると、ある時期から明らかに前に進んでいる、という手応えはあります。
「ましな選択肢」の正体
このサイトで前から書いている「打つ手がない中での『ましな選択肢』」というのは、突き詰めると 月次キャッシュフローで細る分を、物件 BS の純資産で取り返す ということに集約されます。
給与で戦って勝てる時代なら、キャッシュフローを厚くするだけで済みます。けれど、給与の名目伸び率が物価上昇に届かない局面では、キャッシュフローの側はどう頑張っても細り続ける側に立たされる。実質賃金が過去 30 年伸びていないことは、統計でも示されているとおりです。
物件 BS を厚く取るというのは、「攻めの選択」というよりも、キャッシュフローで細っていく分を別の場所で埋め合わせるための 構造的な必要 から来ています。レバレッジを効かせるのも、リスクを取りに行っているというより、何もしないこと自体のリスクも小さくない、という私自身の重み付けの判断です。
想定される反論
この見方に対する反論も、いくつも想定できます。素直に並べておきます。
- 月次キャッシュフローは本当にそんなに細っているのか: 2024 年以降は春闘でベアが復活し、大企業の賃上げ率は名目で物価上昇を上回り始めています。「給与は物価に連動しない」という前提が崩れ始めているという見方もできて、もしそうなら キャッシュフローを厚くする戦略でも十分かもしれない。
- 物件 BS は自動的に積み上がるわけではない: 立地によっては物件価格の減価が借入の希釈より速い。地方郊外の築古や、需給が緩んだエリアでは、物件 BS の左側(資産)が右側(負債)より速く目減りして、左右合わせて損をします。
- 物件 BS は逆回転すれば一気に痛む: デフレ回帰、空室長期化、急激な利上げ、物件価格急落 ── どれが来ても 物件 BS は逆方向に動く。1990 年代の日本では、キャッシュフローも 物件 BS も同時に痛む展開が現実にありました。
- キャッシュフロー即死リスクは BS に出てこない: BS で年単位で積み上がっていても、月次の名目家賃 < 名目返済に転じた瞬間、その月から赤字キャッシュ取り崩しが始まる。耐えきれずに含み益のあるうちに投げ売りせざるを得ないパターンが、レバレッジ不動産の典型的な飛び方です。
- 「給与は削られても、物件 BS は積み上がる」と言うが、税が乗ってくる: 家賃収入には所得税・住民税が累進でかかる。減価償却が切れた後は税負担が跳ね上がり、売却時には譲渡益課税も乗る。手取りベースで見ると 物件 BS の有利さは一段か二段薄まります。
- 区分マンション固有のリスクが小さくない: 区分には、管理組合の機能不全・修繕積立金の値上げ・大規模修繕の一時金徴収・長期での建物価値の減価といったリスクが乗っています。土地持分が薄い分、長期では建物減価がインフレ希釈を上回る局面もある。ここは管理組合の運営にどこまで関与できるか次第で、自分の側で握りきれない要素です。
どれも、論として正しいと思います。私が握れているのは結局 立地選び、借入幅の規律、それと 管理組合の質 ── この 3 つくらいです。賃金制度・マクロ環境・税制改正は、コントロール外の前提として引き受けるしかない。それが極端に崩れないことを引き受ける賭けの上に、この 二つの BS の見方は乗っています。
私の整理
サラリーマン大家として 3 軒のフルローンを持っている自分の手応えは、二つの BS の見方をして初めて整合的に説明できる気がしています。
- 月次キャッシュフローは毎月細る側、それは構造として変えられない
- 物件 BS は静かに積み上がる側、これも構造として動いている
- 二つは見え方の非対称があるから、月次キャッシュフローの側だけ見ているとずっと不安になる
- 物件 BS の側を意識して、年単位で計上していかないと、何のためにやっているのかわからなくなる
「ましな選択肢」というのは結局、二つの BS を分けて見て、削られる側と積み上がる側のあいだでバランスを取りに行く、ということなんだと思います。派手な勝利でも、確実な逃げ道でもありません。誰にとっても同じく「まし」になる道筋でもなく、給与の属性や家計の余力で月次の持ち出しを吸える人にだけ成り立つ見方だ、という限界もあります。それでも、自分の手元の条件で見たときには、給与一本で戦うよりは、まだ進んでいる方向にある、という重み付け。
私は今日も、家賃の振込通知と、ローンの引き落とし通知の両方を見ています。それぞれが、別のリズムで動いている、という感覚で。
— とし
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